交通人文前衛社

編集会議

第一回「文化の彼岸にて」

対談者:図書室のyasu・快速de急行

場所:9月某日の百万遍にて


その、何にも思想とか、欲求の無い奴がね。いきなり原爆を作っちゃって、日本政府を脅迫するって映画があるのよね。


はあ。えらく唐突だね。


『太陽を盗んだ男』って映画で、沢田研二と菅原文太が主演なの。ずっと前から気になってはいたのだけれど、なかなか観る機会がなくて。でも、近所の文化的レベルが高過ぎるレンタルビデオ屋に行ったらあったものだから、それで借りて観たの。


貴君の家の周りの文化的レベルにはまったく興味がないのだけれど、ちなみにどういう映画なの。


あらすじを説明するのは面倒くさいから省くけれど、まぁ正直、いろいろとご都合主義が目立つB級映画でさ。でもテーマが凄いよね。原爆作ったはいいけれど、どうしたらいいかわからないの。
公開が1979年だから、ちょうど「しらけ」の時期だよね。学生運動が下火になったあとに続いた失望の時代というか、一種の虚無思想というかね。ノンポリの隆興。無気力、無責任の時代だよね。
それがまさに、『太陽を盗んだ男』では、原爆なんて強大な力を手に入れた割には、特に何をしたいのか考えていない沢田研二って形で表されている気がするのね。


「あさま山荘事件」であるとか「連合赤軍事件」のような、学生運動というものにおいて肯定されていた「闘争」であるとか「暴力革命」に隠れていた凄惨な暴力やテロリズム。それを知ってしまった社会のショックや反動が「しらけ」とか「三無主義」に象徴されるわけだよね。


それとまったく対になっているのが、映画の中で描かれる軍服来たバスジャック犯。
何か脅迫する以上はちゃんと理由を持っているの。ポリティカルな思想というまでもいかないけれど、まぁ兎に角目的。あと、この事件に巻き込まれることになる刑事の菅原文太なんて、アナーキーに見えて、やっぱり使命に燃えているわけ。
結局、しらけ世代対前世代の構造の象徴だよね。


前世代というとまぁ「全共闘世代」となるか。


1960年代までは、まだまだ戦争から十何年、二十何年の距離感なわけで、高度経済成長期ってまぁ要するに発展途上ですよ。そこで全共闘時代でしょ。「止めてくれるなおっかさん」の時代。


そこからもう10年ほど下ると、1970年からベトナム戦争がはじまるけど、米軍は大した戦果も出せないままに戦力を投入し続けてどんどん泥沼化していく。
そうして犠牲になっていく名もなき市民たちの姿は連日テレビというメディアで報じられて、アメリカではヒッピーやフラワーピープルとかいう、カウンターカルチャーが隆盛するわけで、世界的にみても「反体制」っていうものに若者たちは希望を見出していた時代というか。


だけれど、1970年代で一気にそれが燃え尽きてしまって、1980年代になったら今度はもう大消費主義。ブランド主義だよ。やっぱり1970年代の「しらけ」って浮いてるよね。


しらけ世代って、「自己実現のテンプレート」が欠落しちゃった世代だろうなと思うんだよ。
たとえば全共闘世代というのは個の世界ではないけれど、「権力」対「市民」という集団と集団の対立構造のなかで色々な運動をして、成すべき目的があった。そのために所属する集団であるとかイデオロギーを通じて、自己のあり方や思想を表明することのできた世代と言えるんじゃないかな。
しらけ世代の象徴を「原爆なんて強大な力を手に入れた割には、特に何をしたいのか考えていない沢田研二」とするならば。


ただ、このしらけ世代っていうのも、流動的な状態でしょ。一種の放心状態というか。
そう言えば、1978年にはYMOが出て来て、段々とテクノポップが流行し始めてくるのだよね。何だか話が変わるようだけれど。あとはユーミンか。まぁ、現代につづくひとつの流れじゃない。


「ニューミュージック」が隆盛して、サザンだユーミンだでしょ。高度成長期が終わりを迎えると日本もついに本格的な大量消費社会を迎えるわけだよね。そうするとイデオロギーではなく、消費による自己実現というものが定着して、まぁこれがバブル世代につながると思うんだけど、とにかくそうやって人々は自己実現のテンプレートを得ることができた。
物質的には、第二次世界大戦で日本が焼け野原になって、その復興から大きく変貌したわけだけど、人々の精神的転換点というのはそこからズレていて「全共闘世代」から「しらけ世代」への移行のなかにあったのかもしれないなぁ。


copyright (C) 2016 交通人文前衛社 All Rights reserved.